離婚。そして検査入院

夏休みに入ると震えは一日中続くようになり、歩くことが出来なくなっていた。福祉センターへも市役所から車椅子を借りて通うようにしたのだが、この頃の私は、度重なる夫の暴力に別れを告げるため、離婚へ向けて動き出していた時期だった。 

Kちゃんの病気がなんなのか、一日も早く突き止めたい。そして治してあげたい。それには検査入院をするのが一番の近道なのでは?と考えていた私は、全てに非協力的だった夫の存在が、重荷である事に気づいたのである。

これからは私ひとりで子供たちを守る!そして育てて行くんだ、と心に決めた後、大離婚劇を繰り広げ、夏休みが終わる頃、私は念願の世帯主となった。今まで手枷足枷となっていた全てを取り去れたおかげで、やっと本来の自分を取り戻せたと感じた瞬間であった。さっそく離婚した次の日から、検査入院のため一ヶ月間こども病院にKちゃんを預けることに決めた。しかし検査の為とはいえ、今まで私の側から離れたことのないKちゃんが、一人ぼっちになるなんて!・・と考えると辛くて涙が止まらない。M子ちゃん(Kちゃんの姉)のことが心配ではあったが、祖父母の家に見てもらい、私は仕事を終えたその足で毎日病院へ行っては、Kちゃんに夕食を食べさせてから帰るという毎日を続けていた。

その頃、こども病院のT先生は、ひとつの疑いをもって、Kちゃんを診てくれていたのである。それは、Kちゃんの症状がハンチントン病と非常に似ているということだった。しかし本来ハンチントン病は、中高年で発病する病気であり、しかも成人でも稀な病気を、若年性発症だと見極めるのはとても難しかったはずである。今思うとよくぞ気づいてくれた!と感謝してもしきれないことを、先生はこの検査入院の間にしてくれていたのだ。なんと先生は、Kちゃんの遺伝子検査を進めてくれていたのである。

告知 

検査入院を終えた二ヶ月後、いつものように診察室に入ると、何故か「別室へ・・」と促された。そして何やら棒グラフのようなものが書かれた検査結果が目の前に出される。その1本だけ突き抜けるような長さの棒は、Kちゃんが若年性発症しているという、紛れもない事実を物語っていたのである。(CAGリピート数だった。のちに先生に確かめたところ、107もあったそうだ。)(因みに成人患者の平均は40リピート以上である。)T先生が深刻な顔でカルテを見ながら重い口を開いた。

Kちゃんは若年性ハンチントン病です。その後、先生がハンチントン病についていろいろ説明してくれたのだが、聞いたこともないその病名に、優性遺伝という言葉だけが脳裏にこびりつき、目の前が真っ白になってしまった。「お母さん だいじょうぶですか?」と気づかう看護師に何を答えたかわからず、帰宅途中、運転した記憶がないほどショックを受けていた。

自分が保因者なのか、別れた夫なのかという不安よりも、長女の発病リスクを考えると、恐ろしさは言葉に言い現せない。これから先どうしたらいいのか、身体の弱い親に相談するわけにもいかず、自分ひとりで答えを見つけるしかなかった。まずは、結婚を控えている弟に真実を伝えなければ!と思い、Kちゃんの病名を伝えた。その後、じっくりと考える時間を持つ。

悩む時は深く、そして短時間で結果を出す。Kちゃんのおかげで少しずつ強くなれた私は、この頃からこの対処法で問題を解決することが出来るようになっていた。そしてこの時の結論も、次の日出すことに成功した。知らない病気ならば、知ることから始めよう。知れば突破口が見出せるかもしれない。そして「なってしまったもんは、しょうがない。」を合言葉に、Kちゃんを一生サポートし続けると心に決めたのだった。