~ナンシー・ウェクスラーは、生涯をかけて研究した病気を受け継いだことを初めて明らかに~
 デニス・グラディ著

この記事は、New York Times紙ウェブ版に2020年3月10日に掲載された英文記事(3月11日一部更新)を自動翻訳ソフト(DeepL)も活用して日本語に訳したものです。(出典:https://www.nytimes.com/2020/03/10/health/huntingtons-disease-wexler.html)

 ナンシー・ウェクスラー博士は、生涯をかけて研究してきた病気を自分が受け継いでいることを初めて明らかにした。ウェクスラー博士は、20年間、毎年ベネズエラを訪問し、遠い村に医療チームを派遣してきた。その村では、大家族がマラカイボ湖畔の高床式住居に住み、何世代にもわたって、脳の変性や障害、そして死につながる恐ろしい遺伝性疾患に悩まされていた。隣人たちは「伝染病」を恐れて病人を遠ざけた。

 「医者は治療してくれません」とウェクスラー博士は言う。「神父も手を出しません」。彼女は、村人たちを家族のように思うようになり、彼らのために診療所を始めた。「彼らはとても寛大で、親切で、愛情深いのです」。

 やがてウェクスラー博士は、ハンチントン病の原因究明のために、エリートの科学者たちに競争ではなく、協力するよう説得し、研究のために何百万ドルもの資金を集めた。
 ウェクスラー博士の仕事は、1993年にはハンチントン病の原因となる遺伝子の発見につながり、さらにその機能を抑制する他の遺伝子を特定し、ついに効果が見込まれる実験的な治療法にまで発展させたのである。
 74歳の今、ウェクスラー博士は長い間先延ばしにしてきた苦しく、困難な仕事に直面している。母、叔父、祖父を亡くし、生涯をかけて研究してきたこの病気にかかっているということを、今こそ公表する時だと考えたのだ。

2020年2月 自宅にいるウェクスラーさん
写真:Jackie Molloy
New York Timesウェブ版より転載

ハンチントン病にはスティグマ(負の烙印)や排除がつきものです」。コロンビア大学医学部神経心理学教授のウェクスラー博士は、長いインタビューの中で、こう述べている。「ハンチントン病に対する偏見をなくし、怖さを感じさせないようにすることが重要です。もちろん、ハンチントン病は怖い病気です。致命的な病気であることは恐ろしいことで、そのことを軽んじたいわけではありません。でも、私は自分の人生を止めるわけではない。私はもっと働きたい。まだ治療法を見つけようとしている。そう言えるなら、それは(恐怖を軽減する)助けになるはずです。この病気を持っていることの重荷を取り除くために何かできることがあれば、それをしたいのです」と。

 なかでも彼女の最大の関心事は、この病気の家系である何千人ものベネズエラ人家族である。彼らは血液や皮膚のサンプル、亡くなった親族の脳を進んで提供し、そのおかげで遺伝子の発見が可能になったのだ。しかし、彼らは貧しい地域に住んでおり、ウェクスラー博士によれば、いまだに見捨てられたままなのだ。彼女たちが開いた診療所は、ベネズエラ政府によって閉鎖されてしまった。

「ベネズエラの家族たちと私はDNAを共有しています」とウェクスラー博士は言った。「彼らは私の家族の一部なのに、ベネズエラ社会からひどく否定的に扱われています。このことが、私が自分のことを公表する決意をした理由になっています。泣き出さずに語ることは今でも難しいのですが…」。

 もし、現在、臨床試験中の治療法がうまくいけば、ベネズエラの患者たちは無料でその治療法を受けられるはずだと、彼女は『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』の論説で述べている。
「彼女は異才であり、科学的を主導するリーダーです」。ハンチントン病の遺伝子発見のために彼女が声をかけた人材である、国立衛生研究所長官のフランシス・コリンズ博士は言う。

 ウェクスラー博士は、これまで自分の診断について語らなかったが、友人や同僚にとっては驚くようなことでもない。少なくとも10年前から、彼女の症状は目立っていた。歩行は不安定で、言葉は時々不明瞭、頭や手足は時々制御不能なほど動く。彼女は激怒する。ハーバート・パーデス博士と同居しているマンハッタンのアパートの外では、歩行器が必要である。

しかし、彼女の頭は冴え、その意思は強く、病気と向き合うこと、あるいは向き合わないことを、自分自身の言葉で、自分自身の良いタイミングで選択してきた。「私たちは37年来の親友ですが、このことを私たちが共有できる話題として持っていないことは、とてもつらいことでした」とコリンズ博士は語った。「しかし、彼女も一個人であり、私たちは皆、彼女がまだそこに行く準備ができていないことを理解していたと思います」。

 この春にPBS(米国の公共放送サービス)で放映される、ケン・バーンズとバラク・グッドマン制作の新しいドキュメンタリー「The Gene」(※)に出演することも、彼女のカミングアウトの一部である。
※この映像は、現在ストリーミングされていません [https://www.pbs.org/kenburns/the-gene/]

 その後に撮影された映像は、このドキュメンタリーの一部ではないが、ロシュ社が開発中の臨床試験薬の製造施設を見学する彼女の姿が映し出されている。彼女は、その薬が効いて自分の助けになる時が来るのを望んでいることがわかる。しかし、彼女は高齢のため、この薬の臨床試験に参加することはできない。そして、その結果は2022年まで出ない。映画の中で、研究者が彼女に薬の小瓶を見せる。彼女はその小瓶にキスをして、研究者にハグをする。「それは私の病気よ」と彼女は言う。「あなたはこの病気を治療しようとしてくれているのね」。(※※)
※※この臨床試験は、プチ44号(2021年3月)で報告した通り、いったん中止となりましたが、計画を変更して再開される見込みです。詳しくは、この記事の後ろにある「解説 国内で治験が行われていたtominersen(トミネルセン)について」をお読みください。

 1968年、ウェクスラー博士が22歳のときから、この病気の恐怖はずっとつきまとっていた。ある朝、母親であるレオノアが陪審員としてロサンゼルスの街で通りを渡った時、警察官から「酔っ払っている」と非難された。彼女は自分がよろけていることに気づかなかった。

 レオノア・ウェクスラーさんの父親と3人の兄弟は、ハンチントン病で亡くなっていた。レオノアは遺伝学者であり、兄弟を救う方法を見つけたいと願って選んだ分野であったとウェクスラー博士は言う。ハンチントン病は、優性遺伝によって起こる。片方の親が発症すると、子どもが遺伝子を受け継ぐ確率は、どの子も50%ずつである。この病気は希少疾患でもある。米国では約3万人が発症しており、さらに20万人が発症のリスクを持っている。1967年にフォークシンガーのウディ・ガスリーが亡くなったのもこの病気である。

 レオノアが診断された当時は、この病気の遺伝子を調べる検査は存在しなかった。そのため、自分が発症する可能性があるとわかっている人は、発症するのを待つしかなかった。この症状は、通常30代から40代、つまり子どもを設けた後に表れる。レオノアは診断されたとき53歳で、平均的な年齢を越えていた。うつ病、神経過敏、その他の心理な問題が、制御できない身体の動きと一緒に起こることがある。患者は話す能力を失うが、自分が衰えていくことを痛ましいほど感じている。

 レオノアの診断後、前夫のミルトン・ウェクスラー氏は、娘のナンシーと姉のアリスに病気のことを話し、彼女たちもかかるリスクがあることを告げた。しかし、彼は、そのような状況にもかかわらず、自分たちは助かると言い張った。だが、ウェクスラー博士はその日を振り返ると、一瞬にして3世代が全滅したように感じたと言う。母親と自分、そしてほしいと望んでいた子どもたち。姉と二人で、子どもを作らないことにしたという。この決断を、ウェクスラー博士は、今でもとても後悔しているという。

 ミルトン・ウェクスラー氏は、原因究明と治療法の確立を、その両方でなくてもせめて治療法の確立だけでも実現することを決意し、研究資金集めと研究者の募集を行う遺伝性疾患財団を設立した。ナンシーは、心理学の博士号を取得したにも関わらず、ハンチントン病とその遺伝学に自分の職業生活を捧げる決心をした。

1940年代後半、ウェクスラー博士(左)と父ミルトン、妹アリス、母レオノア。
写真:家族写真 
New York Timesウェブ版より転載


レオノアさんの病状は悪化した。彼女は自殺を図ったが、ミルトン・ウェクスラー氏が救急車を呼んで助けた。その後、母親は老人ホームで何年も苦しんだので、ウェクスラー博士は父親がその決断を後悔していると思ったという。
ウェクスラー博士は、1991年に出版されたエッセイの中で、「母の病状が進むにつれ、私は彼女に服を着せ、抱えて移動し、歯磨きやトイレを手伝い、食事をさせ、そして、たいていは彼女を抱きしめてキスをしていた」と書いている。「悲しみと恐怖をたたえた母の目は、今も私を悩ませています」。
レノア・ウェクスラーさんは、診断から10年後、1978年の母の日に亡くなった。

 1955年にベネズエラの医師、アメリコ・ネグレットによって初めて報告された大家族を研究するために、ナンシー・ウェクスラーは翌年、初めてベネズエラを訪れた。この家系は、世界で最も多くハンチントン病を発症していると考えられていた。彼女は、遺伝子を見つけるには、科学者ができるだけ多くの患者とその健康な親族のDNAサンプルを必要としていることを理解していた。

 船で到着した科学者たちは、患者をいたるところで見つけた。その中には子どももいて、身もだえするような動きをしたり激しく身を動かしたりしていた。この病気の典型的な症状で、地元では「エル・マル(邪悪)」と呼ばれていた。ウェクスラー博士は、彼らに対して、自分もこの病気に関係していて、家族はこの病気にかかっている、と言った。そして、自身が皮膚を採取されたときにできた、自分の腕にある小さな傷跡を見せ、彼らにも皮膚を採取させてほしいと頼んだ。
ウェクスラー博士は、「あの子たちのことを好きになった」と言った。

 ウェクスラー博士は20年間、血液サンプルを収集するチームとともに訪問を続け、最終的に4,000の血液サンプルを収集した。18,000人以上で構成される10世代にわたる家系図から、病気の経過をたどった。
「ベネズエラでのナンシーとの仕事は、個人がいかにチームを率いて、レンガから絶対に水を取り出すことができるかを証明するものでした」と、ウェクスラー博士とともにベネズエラを22回訪問したマサチューセッツ総合病院の教授で元・脳神経内科部長、アン・B・ヤング博士は語っている。「彼女は私たち全員を連れて、気温96度(注:華氏での表記。摂氏に変換すると約36度)、湿度90%の現場に16時間かけて運転できたのです」。

 ウェクスラー博士の存在感は強烈だった。
「彼女はカリスマ的な存在でした。部屋に入ると、あなたを抱きしめて、目を見つめて、あなたの話すことを全部聞いてくれるんです」とヤング博士は言う。

1990年、ハンチントン病の軌跡をたどった家系図を持つナンシー・ウェクスラー博士 
写真:Acey Harper/The LIFE Images Collection, via Getty Images
New York Timesウェブ版より転載

「彼女は決して自分のことを考えませんでした。常に、相手から何を学ぶかを考えていました。だから、みんな、彼女にぞっこんになりました。彼女のためなら身を捧げてよいよいと思っていました」。
最初のベネズエラ訪問旅行からわずか4年後の1983年、研究チームはマーカーを発見した。マーカーとは、遺伝子そのものではなく、その近くにあるDNAの伸張のことである。その後、遺伝子そのものを見つけるまでにさらに10年を要したが、ウェクスラー博士と彼女の父親が選んだ6つの研究グループが、第4染色体(体内のほとんどの細胞に存在する23対の染色体のうちの1つ)に原因遺伝子を見つけることができた。

 この発見は遺伝学における画期的なものであり、科学者たちはウェクスラー博士なしには決して起こり得なかったと言う。
 ウェクスラー博士とその父親は、研究グループで共同作業が進むよう「執拗に要求した」という。
「各研究グループは、強いエゴを持った研究責任者によって運営されていました」とコリンズ博士は言う。「物事がいつもスムーズに運ぶわけではなかったことは想像に難くない。でも、ナンシーに『この人とは一緒に仕事ができない』なんて言えるわけがないんです」。
ミルトン・ウェクスラー氏は、著名人を顧客に持つ心理療法士であり、一部の顧客の力を借りて自分の活動を支援してもらった。

「サンタモニカで開かれる年次総会では、ジュリー・アンドリュースやキャロル・バーネットの家で夕食会が開かれることもありました」とコリンズ博士は言う。「私たちは皆、目を輝かせていました。私たちオタクにはかなりの役得でした」。
 ウェクスラー博士は、研究会にハンチントン病患者やその家族を連れてきて、病気のある生活がどのようなものかを説明した。科学者たちの多くは、ハンチントン病を間近で見たことがなかった。 

2006年にミルウォーキーで開催された米国ハンチントン病学会の大会で、
妹のアリスさん(左)と一緒に撮影したウェクスラー博士。
写真:Suzanne DeChillo 
New York Timesウェブ版より転載

「研究者として聞いていて、その深刻さに心を動かさないわけがない」とコリンズ博士は言った。「これは、学術的なお勉強ではないのです」。ウェクスラー博士自身への思いも、チームを動かした。「彼女にもアリスにも時間が迫っていることは分かっていた」とコリンズ博士は言う。「それは、ナンシーが呪いから逃れられたのか、それとも彼女にも降りかかってくるのか、常に見守ることでした」。

 この遺伝子には、研究者たちがハンチンチンと名付けたタンパク質の設計図が含まれている。このタンパク質が脳でどのような役割を果たすかはわかっていない。しかし、この病気の患者では、CAGという文字で表される一連の3つのDNA構成要素が、あまりにも多く繰り返されている。この繰り返しが、ハンチンチンタンパク質の異常な形態につながり、脳の神経細胞に害を与える。
この遺伝子が見つかったことで、この病気にかかるかどうかの検査法を開発することが可能になった。この発見は、今日まで続く倫理的、感情的な難問を突きつけた。
治療法もなく、進行を遅らせる治療法もない、身体障害や致命的な病気が待ち受けていることを、人々は本当に知りたいと思うのだろうか?

 研究者たちは、この情報が人々を絶望させ、憂鬱にさせ、自殺に追い込むことさえあるのではないかと懸念していた。ウェクスラー博士は、その旺盛な知識欲から、いち早く検査を受けるだろうと多くの人が予想していた。しかし、彼女は一度も検査を受けていない。その姉もそうだ。
 「その知識がわかったところで、生きていけるとは思えません」とウェクスラー博士は言った。「私は大丈夫だから、受けることはないと思っていたんだと思います」。曖昧なまま生きる方が楽だった、と彼女は言い、「否定することは重要だ」と付け加えた。
 中年になると、彼女はすべての視線が自分に注がれていると感じ、それを恨んだ。「みんなが鷹を見つめるように私を見ていた」と彼女は言った。
徐々に症状が現れてきた。ビデオや鏡に映った自分を見て、「あれ、どうして動いているんだろう?」と思った時に、初めて自覚するようになったそうだ。自覚の瞬間は一度ではなく、何度もあった。自分の写真やビデオを見て、初めて自分が病気であることを認識することは珍しいことではない、とヤング博士は言う。

 「ビデオで自分の姿を見るたびに、少しずつ悪くなっているように見えた」とウェクスラー博士は言う。
他の人は、博士が動き、飲み物をこぼし、字が乱れていることに気づいた。
「私は彼女をとても愛しているので、彼女がこの病気であることを自分に納得させるのに苦労しました」と、この病気の専門家であるヤング博士は語った。「私は心の中でそれを消そうとするのです。そして、多くの人がそうしたと思います」。
 しかし、同僚の中には、ウェクスラー博士に「この病気なんじゃないのか」と露骨に聞く人もいた。「そうだ」と言い放った人もいた。しかし、ウェクスラー博士が「そんなことはない」と言うと、「否定するのは症状の一つだ」としか言われなかった。足を組んだりすると、「震えを隠そうとしているのか」と責められる。それを見て、彼女は腹が立った。
パーデス博士は、お節介な人たちに手を引くように警告した。人々はその話題を避けるようになった。

「部屋の中に大きな象がいるのに、みんないつも見ないふりをしていた」とヤング医師は言った。「彼女の親友たちは、彼女を傷つけたくないので、少し引き下がるしかなかった」。
彼女の姉は、彼女に心を開くよう励ました。「ハンチントン病の診断を受けることは、決して死刑宣告ではないということです」とアリス・ウェクスラー氏は言う。「適切な医療と社会福祉サービスがあれば、長く付き合っていける病気なのです。彼女はこれまで生産的に生きてきたし、これからもそうだろう」と。

 こうして彼女は、助成の申請を検討し、研究資金を集め、科学の会議に出席している。ウェクスラー博士は、新薬の研究に希望を託している。まだ、学ぶべきことはたくさんある、と彼女は言う。

「今のうちに、自分が楽しいと思うことを見つけて、それを楽しむことです」と彼女はアドバイスする。「『こいつ』に身も心も奪われないようにね」。

<了>